リーチ先生 / 原田マハ
人から「先生」と呼ばれる人は、どんな人だろう。
どうして、そう呼ばれるのだろう。
この作品に描かれているリーチ先生は、まさしく先生と呼ばれるにふさわしい人格者である。
本屋に平積みされていた本作「リーチ先生」が目に入った時、わたしの頭にはちゃんと「バーナード・リーチ」という名前が浮かんだけれど、果たして何をやった人なのか、全然思い出せなかった。
好いものを好いと言葉に出すことも、好いものを好いと思える感性も、ステキなことだと思う。
私は自分の目が肥えているとは到底思えないから、好いと思っても、果たして本当に良いものなのか、自信がなくって言葉にできないことがある。
でも本当は、本当に好いかどうかは自分の主観であって、そこに正解なんてないんだと思う。
いまは朝ドラのスカーレットを観ているので、勝手に陶芸がきているのかなとか思ったり。
少し前に、陶芸教室の体験で手びねりでコップを作ったけど、どうにも上手くいかなかったのを思い出す。
中学生の頃は美術部に入っていて、一度だけ特別講師の陶芸の先生から教わって、ろくろでお皿を作った時の方が上手くいったというのも思い出す。いまもあのときのお皿(というか小さいどんぶりみたいなの)は、実家で使われている。
この間の朝ドラで、八さんが「誰もが好いと思う作品なんてない。やってきた僕が言うんや。主観でしかない。」と言った言葉は、経験から放たれる言葉には、重みと説得力がある。
話を本作に戻そう。
リーチ先生の近くには、今から考えると錚々たるメンバーがずらりと並ぶ。
私は、あまり史実との整合性を調べたりしないものだから、柳さんも、高村さんetc.も、本当に知り合いだったかはわからない。
でも、本作を読むことで、当時の人がいかに外に学び、自国の発展のために本気で考えていたかは感じることができるし、文章を追いながら、どこか遠くで自分も彼らの議論に加わっているような、加わりたいような感覚になった。
時代も場所も違うけど、私も昔、東西交流の歴史を学んでいた。
彼らは、必死に学び、考え、自らそれに寄与することを考えていたのだ。
世界はどんどん複雑になっていって、難しいことばかり転がっているけれど、美しいものが生み出され、美しいものが美しいと言われる世界であってほしい。
機能美という言葉があるとおり、私は自分が持つものには基本的に実用性を求める。そして、デザイン性も大事。例えば洋服とか、鞄とか。
時代を遡れば遡るほど(例えば江戸時代とか)、機能性が優れているものが多いと思っていた。
しかし、昔は用と美は分けて考えられていたのだと本作で知った。そしてその考え方が、美とはただそこにあるだけで美、という要件で成立することで美と認められてきたからだ、ということも(そう解釈した)。
眺めるだけでなく、手に取り、使い、古びて、そして、味が出る。
そんな美があってもいいという、今から考えるとあまりにも普通な感覚は、時代とともに、本作の中では柳さんを筆頭とした人々のお陰で、培われてきたのだ。
冬の陽射しに照らされる木々も、群青色の夕焼けも、ちゃんと綺麗と思わないと、忙し毎日に、文字通り忙殺されてしまう。
美しさをちゃんと受け止めて過ごそう。
好いものを好いと言葉に出そう。