旅をする木 / 星野道夫
どうしてこの人の文章を読むと、涙が溢れそうになるんだろう。
星野道夫さんという写真家の存在を知ったのは、一昨年の夏だった。
SNSで友人が、没後20年の特別展について「ぜひ行きたい」と載せていて、それを見て1人で特別展に足を運んだ。
そのときの衝撃は、胸に迫ってくる感動は、今でも覚えている。
今にも動き出しそうな熊の狩り、瑞々しい自然、風を感じる風景、カリブーが佇む原野・・・
一度も訪れたことはない、訪れることはないだろう景色に、心を打たれて、そこに根が生えたように足が止まってしまったのだ。
遠い世界を、広い世界を、頭で認識するのとは異なる感覚で、目を通して知覚した。
あるとき、別の友人に星野道夫さんの話をすると、「ああ、あの、教科書とか学習ノートのシロクマの写真の人でしょ」と言われて、驚いた。
いつかこの人の本を読もう、写真集を読もうと思っていた。
そして、やっと手に取るタイミングが来た。
「人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもない些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。」
星野さんの文章は、語りかけるように優しい。
そう、そうなんです。暖かな風が頬を撫でれば、青空が広がれば、花が咲けば、それだけで、その瞬間だけは、嫌なことはどこかへ立ち去ってくれるのです。
私は、心の中でおおいに頷きながら読む。
どうしてこう、人の心をぴたりと言い当てられるのだろう。
それがきっと、この人のひととなりというものかもしれない。
この本を読むと、自然という大きな流れを、その中で生かされている自分の小ささを、自分が今踏みしめる大地を、その場その場で生きていく人間という営みを、改めて思わせられる。
私は、電車で本を読みながら、何度も何度も目頭が熱くなりながら読んだ。
「狩猟生活が内包する偶然性が人間に培うある種の精神世界がある。それは、人々の生かされているという想いである。クジラにモリを放つときも、森でムースに出合ったときも、心の奥底でそんなふうに思えるのではないだろうか。
私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会では見えにくいその約束を、最もストレートに受け止めなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。
動物たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。つまり、この世の掟であるその無言の悲しみに、もし私たちが耳をすますことができなければ、たとえ一生野山を歩きまわろうとも、机の上で考え続けても、人間と自然との関わりを本当に理解することはできないのではないだろうか。人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分にとり入れることで、より深く大地を連なることができる。そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的には離れてゆくのかもしれない。」
私は、世界の広さとか、自然の雄大さとか、人々の暮らしや生命の理に、どれだけ心を寄せていくことができるだろうか。寄せるというよりは、それこそ耳をすませることかもしれない。
私たちは大きな流れの中で生かされている。それはいつなくなるかはわからない。
ただ、日々の小さな悩みが一瞬の自然の美しさで癒されるように、自分の置かれている状況が「生かされている」ことを知るだけで、そこに想いを馳せるだけで、人生はもう少し肩の力を抜いて生きていくことができるかもしれない。大きな流れの中では、今目の前に起こっていることはそれほど大したことではないという事実が、ふと気づけるかもしれない。
もう日本では春の訪れを感じます。
アラスカではいかがでしょうか。
ワスレナグサはいつ頃花を咲かせているのでしょうか。
そんなことを思えば、きっと明日の満員電車から見える空だって、アラスカまで続いているんだと知ることができる。
この本に、出逢えてよかった。そう思えることがうれしい。