神々の山嶺 / 夢枕獏
久しぶりに立ち寄ったブックオフで見かけたとき、あーこれ夢枕獏さんなんだぁと驚いた。
私の中では、陰陽師のイメージが強すぎて、現代物を書くとは思わなかったから。
小学生か中学生のとき、テレビで放映された映画版陰陽師が面白くって仕方がなくて、母親が数巻持っていた文庫の陰陽師を全部もらって、新刊が出るたびにコツコツと買っていたことを思い出した。
阿部寛さんと岡田くんの、映画化の帯がかかっていて、数年前に映画の宣伝をしていたそれを、まさか夢枕獏さんが書いていたとは想像もしていなかった。
なんだって、山岳小説の最高傑作、みたいなことが書いてあって、最高傑作なら、夢枕獏さんなら、面白いだろうと思って手に取った。
しばらく手が出せなかったのは、分厚い文庫が上下巻に渡ることもそうだけど、なんとなく、登山小説を読む時は、それ相応の覚悟をしないといけない気がしていた。
入り込んでしまう瞬間から、私はそこからいなくなってしまうから、そのままどこかへ行ってしまうのではとか、あとは、山を登るときは人生山場だとか、聞いたことのある言葉を思い浮かべては、別の本に手を伸ばしていた。
覚悟できたのか、こだわりを手放したのか、読もうと手を伸ばしたのは、1月の終わりか、2月に入ってからだった気がする。
それはあっという間に、私の意識をカトマンドゥの街中に連れて行った。もちろん、行ったことはないから、描写や、それまで自分が見てきた写真や映像から、想像をつぎはぎしたものに過ぎない。私はきっと、あの街では鼻をつまんでしまうだろう。
そしてそれは、思った以上に引き込まれる題材だった。歴史の目撃者。謎を解き明かすような高揚感。危険と隣り合わせの一歩。臨場感。ギリギリにいる人間の思想。
それは、物語の核となるマロニーや羽生を追いかけている、人間が関わってくる領域ではわくわくどきどきさせられた。
そして、人間の領域を超えた、山々を一歩一歩進み、立ち止まり、絶望と向き合うときは、読みながらどこに行けば良いのかと、随分と消費させられた気がした。
何度も何度も、同じ言葉を、似たようなフレーズが繰り返し出てきた。一番最初に出てきたとき、まさしくその通りだと感じたものを以下に引用する。
人は、色々な事情を抱えて生きているものだ。
そういう事情に、ひとつずつ、きっちり決着をつけながらでなければ次のことを始められないというなら、人は何も始めることなどできないのだ。人は誰でも、様々な事情を否応なくひきずりながら、前のことが終わらないまま、次のことに入っていくのだ。そうすることによって、風化してゆくものは風化してゆく。風化しきれずに、化石のように、心の中にいつまでも転がっているものもある。そういうものを抱えていない人間などいないのだ。
読み終わる日の前日、大好きな番組イッテQで、イモトさんが南極の山に登ったのを再放送していた。この人、すごい精神力の持ち主だなと思うと同時に、この人は、どちらかというと、山に好かれてる人なんじゃないかな、とも思った。なにが理由かはわからないけれど、もちろん、登れなかった山があるのも知っているけれど、どうしてかと訊かれると、それは、その行為を天秤にかけたとき、自分のためよりも、誰かのための方が重いからじゃないかなと少し、思った。
私は、山には登りませんが、こうして平和な食卓で山頂からの景色が見られることを楽しみつつ、ありがたがりつつ、高くも低くもないこの場所で、また次の本に手を伸ばそうと思います。