天空の城ラピュタ と 天気の子
これはこの2つのアニメ映画を比較しようという話ではなく、単純に、先日の金曜ロードショーで観たのと、映画館で観たことの感想である。
いつもそうではあるけれど、公開中の映画ということで、多分にネタバレがあるのでご注意ください。
ジブリ映画で1番好きなのはなに、と聞かれると、答えられなくて困ってしまうのだが、最近、私の周りにはラピュタが1番好きという人が何人かいる。
先日ひさびさに通しで観て、昔見たときの印象と、今見たときの捉え方が違うと実感した。
まず、まぁ今更の話だったり、昔もぼんやり思っていたところはあるんだけれども、宮崎駿監督は、「ラピュタ」(飛行石の力を持った高度な文明)になにを重ね、描いていたか、という点。
前作のナウシカが人類の文明が滅びた後の世界で、巨神兵が第二次世界大戦の原爆を意味していたことと、とても近いものを、より子どもも楽しめるものに昇華する、という試みをラピュタで行なっているのだ。
今回の金曜ロードショーのテレビのdボタンから、宮崎駿監督のラピュタ企画段階での思い、みたいなコメントが読めて、初めて目にしたんだけども、その中には、「より子どもも楽しめる、パズーの冒険もの」「脳が完成するとされる小学校4年生で観られるアニメーション」みたいなことが書いてあって(違ったらごめんなさい)、たしかに子ども向けで、ナウシカの要素もあるなと思っていたけど、こういう意図があったのかぁ、(元々の原案では「パズー少年の冒険」みたいなタイトルで)パズーが主人公だったのかぁと初めて知る部分もあった。
作成された時代からするとびっくりするほど先進的で、芸術作品であり、物語であり、思想があり、エンターテイメントである。
洞窟でトム爺さんが「(飛行石の)強い力は人を狂わせる」と言い、トム爺さんもシータも神妙な面持ちになるが、パズーは目を輝かせて「その石は2回もシータを助けたじゃないか。すごいぞ、ラピュタは本当にあるんだ!」というシーンがある。
今までは、自分の父の言葉が真実だったことへの嬉しさの表れだったと思っていたが、
今回はちらりと、未知との遭遇、これからの冒険へのワクワク感に伴う、初期症状のような「狂気」を含むのでは、と思った。(それはまぁシータという強い動機のために膨張することはなかったが)
ラピュタという「大いなる王国」がなくなった理由。圧倒的な力と技術力を持ってしても滅びてしまった歴史。
人間の科学技術がどんなに発達しても、どんなに沢山の「可哀想なロボットを作っても」、「土から離れては生きられない」。
この映画の言いたいことって、全部ゴンドラの唄が教えてくれたんじゃないかな。
それでも人間は今もなお、「可哀想なロボット」を作り続けてる。
もはや、土から離れては生きられないのと同じくらい、可哀想なロボットなしでは生きられないところまで来てしまっている。
シンギュラリティを超えた先にあるものは、ターミネーターか、ナウシカか。
ラピュタは予言のように、私たちに滅びの呪文を教えてくれる。
天気の子
「君の名は」を観てから、新海監督の作品はいくつか観て、次回作というから、これは観なきゃと思っていた。公開1ヶ月が経った頃、もうやっぱり観に行きたい!と思って急ぎ映画館に足を運んだ。
やっぱり映像がキレイ。
雨が地面にあたって跳ねる画なんか、もー美しい。本物よりも綺麗かも。
そしてやっぱり、私は晴れが好き。
ナレーションに共感。
人は晴れだとなんだか気分が良くなる。
朝の情報番組のインタビューで、監督が「今までは天気は享受するものだった。これからは(自然災害などに)備えるものになった。」みたいなことを言ってたのが記憶にある。
(そのまんまじゃなかったり、正しくないかもしれない。ネットで検索すれば出てくるかもしれないけど、そのとき「備えるものになった」という言葉がやけに印象に残ったので、記憶だけ頼りに話を続けるが)
そのとき、この人は時代をよむ人、よめる人なんだなぁと思った。
映画なんて一朝一夕でできるものじゃないし、それにしたってあんまりにタイムリーだから「タイミングが悪い」と思う人もいれば、「すごいタイミング」と思う人もいるだろう。どっちが正しいとかではなくてね。
神主のおじいちゃんが、「みんな観測史上初とか騒ぐけど、観測なんてたかが100年くらい。世界はもっと前からある。異常だというのが異常だ」みたいなことを言って、それはすごいそう思うし、ずっと思ってたことだった。
「あのとき」だって、江戸時代だかなんだかの昔の人が残した「ここより高い所に行け」っていう印は、本当だったように。
「君の名は」でもそうだったけど、日本の神話や伝承が巧みに入り込んでいる、それがベースになっているのがすごく良い。
ただまぁ、個人的には警察と拳銃はいらなかったかな。緊迫感とタイムリミットと現実問題(子供の生活)を出すという役割(目的?)があったとしても、なんとなく、すっと自分たちの近くから離れた気がしたから。親近感と共感度が、下がってしまった気がしたから。
すぐに消える水の魚たちがかわいい。きれい。
ひなさんは、自分の役割が、自分が役に立つ場所が、ほしかったんだね。
私は、最後に壊れていたひなさんのチョーカーが、どういう経緯で彼女のもとに来て、お風呂に入るその時まで付ける存在になったのかがすごい気になった。たぶん、お母さんの形見なのかな、という憶測。
私は、できたら最後はお天気になってほしかった。謎を解いて、代わりになるものを捧げて、ひなさんは普通の子に戻れば良いと思った。
でもこれには2つの考え方があって、1つは、代償が必要だということ、等価交換だということ、そして、映画で語られた最後の数年間なんて、歴史から見るととるに足らない時間でしかないということ。こっちを、新海監督は取ったのかなぁと。より、大きい視点だと思う。
もう1つは、先に言ったこと。それはとても物語的で、人間中心主義的な考え方だけど、すっきりする。そして、より、神話や伝承に物語のウエイトを置く必要が出てくる。
これは、好みの問題だと思う。
そして私は、最後にほだかが言っていた、「僕たちが世界のかたちを変えてしまった」という言葉より、けいすけの「世界はもともと狂ってる」という考えの方がしっくりくる。
誰のせいでもない。誰のためでもない。
なにが正しいわけでもない。
世界って、そういう在り方をしてると思うから。
さっき言った、警察はいらなかったっていう話だけど、いくつかを語るにはやっぱり必要で、例えばけいすけが、警察には関わりたくないと保身からほだかと離れるシーン。
人間って、そういうところあるよね、けど、けいすけの状況を考えると、気持ちわかるな、っていう共感もある。
ひなさんとなぎくん、子ども2人での生活は無理がある、とか。なんか他にもあった気がするけど、とりあえず思い出せないのでこれくらいで(笑)
とりあえず、新海監督は新宿が好きなんだなって思うけど、東京こえーっていう言葉にスポットが浴びると少し悲しい。
そういうところもあるけれど、そうじゃないところもあるよって言いたくなる。
平泉さんと倍賞さんの声は、すーぐにわかった。なんなら顔も似せてた気がする。
映画館が少しざわっとしたのは、たきくんとみつきの登場。たきくんの登場はガッツリだったなぁ(笑)私は、結構最初のほうの、観覧車のカップルも、あの友達だと思ってる。
ラピュタを観た直後だったから、あの積乱雲は竜の巣みたいに見えた。
ストーリーの流れは、やっぱり「君の名は」と少し似てた気がする。新しい日々、それを繰り返すシーンとか。
私はどちらかといえば大人の方だから、彼らに言うんだろうな。
大丈夫だよ、誰のせいでもないよ、って。