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大学とは何か / 吉見 俊哉(ネタバレあり)

今回は主に内容の要約で、感想は少しだけ。

 

主に本書は大学の歴史とその時代における役割と定義、形態を示してくれる。
前半は世界、後半は日本。

まず、大学は中世の都市においてはじまり、建物を持たず、自由に移動できる存在だった。
大学は、学生・教師の組合団体であり、ボローニャ大学パリ大学等。
また、その言語はラテン語で統一され、どこの都市でもある一定の同レベルの講義を受けることができた。
内容は、神学・法学・医学を上位とし、自由七科を扱う、アリストテレスの知を受け継ぐものであった。
13世紀に爆発的に増加するが、知的発達はなされず、保守的な状況に陥る。

この大学の状況に対して台頭してくるのが出版技術である。それまでは写本による知の伝導が主だったが、グーテンベルクによる出版技術により、新たな知のネットワークが書店を中心に広がっていく。そのネットワークにより出現した知識人によって形成されたのが「アカデミー」であり、ルネサンス期のフィレンツェ等におかれ、それが大学ととってかわっていったのだ。

 

中世の大学は死んだも同然だったが、19世紀に第二の大学が誕生する。
それは、ドイツのナショナリズムを背景として、フンボルト理念を掲げた近代的大学である。
カントの思想を基に、大学の学部を「上級学部(有用性)」と「下級学部(自由七科)」に区分した。上級学部は法学・医学等、社会に有用性をもたらす学部であり、下級学部は哲学をはじめとする理性の自由を目標とする。

 

後半は戦後日本の大学の変遷について。
従来、占領期に行われた改革は米国に押しつけられたものという認識が多かったが、実際には異なると著者は主張する。
戦後日本の大学改革においては、米国側にも2つの思想があり、その狭間で有識者が舵を取るといった形で確立されていった。

戦後直後の帝国系の大学は、キリスト教いうところの「神」の位置に「天皇」を据え、天皇のもとに国家のための大学として設置された。

 

帝国系の大学は、官僚育成機関であり、各分野での学校が統廃合を繰り返し、(東京)帝国大学となった。
私学は個人塾がはじまりで、福沢の慶應義塾や大隈の早稲田大学等が設置された。
私学の教授陣は出版社・書店と良好な関係を築き、当初、雑誌は有名著書に執筆してもらうことでその権威を獲得していったが、後にはその雑誌に掲載されることで、執筆者に権威が与えられた。


大学紛争(1968年頃)については、私学と国立ではその原理・形態の違いを明らかにする。
私学においては、日本大学の紛争が最大規模であり、その発端は、高度経済成長を背景に、経営側が大学の規模拡張を手段として利益を追求し、学生数が激増したことにより、教育・研究の質低下に対する抗議であった。
国立大学においては、特に東京大学では、医学部局員の処遇が発端であり、旧体制の研究室体質への反発であり、教授陣と学生という対立構造であった。
両紛争において共通しているのは、バリケードが張られた校舎内で自主的に講座が開講されたところだが、その空気感は私学・国立で異なり、いずれにせよ自主的な学習の継続は難しく、衰退していったようだ。

また、国家的背景から工学部の定員数を増員する方針が打ち出される。これは、工学部が軍事的・技術的革新に必要な人材を育成する場として利用価値があるとされたからである。なるほどだから東大工学部はあんなに大きいのか、と納得。

国は私学へのコントロールを一度手放し、定員数の制限を外すが、これも大学数の増加による教育の質の低下を招き、失策といえる。
国立大学は、従来、国が教育現場(教師と学生の間)に介在しないことで「学問の自由」を担保してきたと考えられていたが、実際はその経営・運営までを大学自身で担っていかないと、真の「国からの自由」とは言えない。大学自身が経営を行っていくため、平成16年の法人化により、財源は従来の一般財源から特別財源に切り替え、一定数を年々削減するという状況になった。
しかし、もはや当初の目論見もむなしく、今やただただ財源の減少により人件費の縮小、対在学生の支援策の縮小、紐付きの新プロジェクト用財源の獲得に奔走といった、ある意味で財源がないことが原因で教育・研究の質の低下がおきかねない状況のように感じる。(実際、起きているのでは...?)
大学での主な自主財源といえば、入学料・授業料であるが、それも国立では容易に値上げすることもできないし、学生の経済状況を思えば好ましくはないだろう。
(実際、今の日本では学生時代の奨学金ローンが社会問題になっている。)
大学病院を有する大学は自主財源を得る手段もあるが、その他は海外大学のように寄付金等しか思い浮かばないし、それは日本文化ではまだまだ成果が上がりづらいだろう。
さてこの国は、どんな人材を育成し、どんな国を造りたいのか。その姿は今の施策からは見えてこない。

正直、最終章はよくわからない・ざっくりしているという印象。
今の時代は、むしろ中世の大学のそれに類似していると著者はいう。
国民国家の退潮により、「グローバル化」と「英語の重要性」が主張され、大学は今後の在り方を検討しなければならない。
インターネットの普及により、あらゆる場所で教育を受けることができるようになり、今後の大学の講義室・研究室の在り方はどうなるのか。
エクセレンス」=「卓越性」をどこに求めるか。

最後のあとがきで、著者は、本書は、大学とは何々であるという定義をするよりも、時代によってその定義が流動的に変化していることを示すためのものだとする。結論を逃げたなと思う一方、それはそれで事実だなと感じ、1冊の本としては上手くまとめられている。