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フンボルト理念の終焉?現代大学の新次元 / 潮木守一(ネタバレあり)

備忘録。
※誤り・解釈違いの可能性あり。

 

ベルリン大学が所謂フンボルト型大学の先駆け。ベルリン大学は、それまでの郊外の丘にある、エネルギーの有り余った青年たちの居場所という大学の立ち位置を変え、都市部の中心におかれた。これは、学生が集まることによる都市部への経済効果と、国家の中心都市に大学が置くことで、大学から国家官僚へのスムーズな移行、その距離感を縮める役割を果たした。

 

フンボルト型大学とは、一般に研究中心の大学を指す。ゼミナールや実験室、研究室の存在が大きい。フンボルトは「知識をまだ明らかにされていないもの」と扱い、学ぶ学生以上に、研究する学生像を浮かび上がらせた。19世紀のベルリン大学では、こうした傾向から、学生は授業を受けようと受けまいと自由であり、必修のカリキュラムは存在しなかった。学生は「一人前の大人」であり、「自由」だった。自由な学生は勉強せずにスポーツに打ち込む者もあれば、移動も自由だったため、人気な授業があれば他大学の授業を受けに別の都市へ行った。そしてこの時代にいたっては、学生の間にはいまだに「決闘」が存在した。
当初、ゼミナールは奨学金付きで少数の選ばれた学生しか受けることはできなかった。ゼミナールに所属すると忙しくなった。

教員によっては、学生の教育には全く関心がなく、研究に打ち込む者もいた。

 

中世、大学教授の身分は一度獲得すると終身制で土地も与えられたため、教授会が親族縁者を中心に採用する状況がはびこった。そのため、フンボルトは大学の教授会の教員採用決定権をなくし、教授会による推薦、国家政府による最終決定という形態をとった。政府側で強力な権力を握ったのが、文部官僚アルトホーフだった。


教員免許を取得しても正規の教員ポストにつけるわけではなく、非常勤として働いた。授業の受講は自由だったため、人気講師には人が集まり、非常勤講師は大学に用いられるようになった。多くの非常勤は正規になれずにいた。
次第に、教員の待遇やポストは研究成果によって決定されるようになり、有名大学だからと良い教員を獲得できる訳ではなくなり、研究環境の善し悪しで教員側が選択権を持つこともあった。

 

アメリカの大学は従来、「復誦」形式の授業だった。
元々、子供は他人の家に奉公に出して教育(しつけ)を行う形だったが、経済的余裕が生まれると他家に出すとなると世間体が悪くなり、その代わりに出てきたのが大学という組織。学問は、若者のエネルギーを注ぐ矛先となる手段に過ぎず、授業の内容は重視されなかった。
しかし、ドイツ留学から帰国した者が、ドイツモデルをアメリカの大学に導入した。アメリカにおける研究型大学の先駆けがジョンズ・ホプキンス大学だった。
一方で、それに適合しない学生もいた。例えば、ウッドロー・ウィルソンプリンストン大学総長、第一次世界大戦中の大統領、国際連合の設立者、人種差別主義者)。

 

だった。特に法科において、講義の丸写しで試験重視の東大に比べ、京大は大学風の気風があったとしている。
しかし、当初はジャーナリズムを味方につけていた京大は、官僚輩出という点において、国家試験の合格者の少なさから、批判の対象となる。

そして、ドイツにおける学問の凋落は、アメリカ等の他国大学の台頭、第一次世界大戦後のハイパーインフレーションによる経済難、戦時中の大学人の主戦的対応、ナチス・ドイツの台頭など、世界情勢が大きく影響を及ぼした結果である。

現代においてフンボルト理念は、「研究に主眼を置き、教育をないがしろにしている」「理想であって、現実とは異なる」と批判を受けることが多々ある。

 

また、ドイツではフンボルト理念を使って「学問はそれ自体が目的となる」として、基礎研究に重きを置いた時代があったが、「役に立つ・役に立たない」で学問の価値を語るのは危うい。

大学の役割の一つである、批判的態度が果たされなくなってきたのは、研究型大学の末に学問が細分化され、専門分野への特化が中心となったためである。

大学進学率上昇は若年失業者を増加させた。現代では若年失業者に対する居場所を与え、かつ他の年齢層に対しても学習の場として開かれることが大学には求められている。

著者の結論は、知的活動の担い手が必要とされ、そのための場の提供が求められているとしている。

 

ひとつ、文中のハーバード大学のロソフスキーの言葉を残しておく。

「大学は収支決算だけで動いてはいけない。営利企業のように、市場の変化だけに対応してはいけない。それは大学にとってよくないだけでなく、大学が役に立ちたいと願っている社会のためにもよくない。」