On the way

思いつくまま気の向くまま

たまらなく大きく

新しいものと古いものの境目はどこにあるのだろう

ときどきふと、そんなことを思う

 

反対に見えるものは延長線上にあり、

比較対象とならなければ反対にはならない

 

いつ、新しかったものが古くなるのか

古いものが新しいと言われることもある

 

直線的か円を描くか

たいていの事象は、螺旋を描いているように思う

 

わたしたちの遺伝子と一緒

ぐるぐる回っているのに

同じところは通らない

 

上から見ると同じ場所のように見えるのに

横から見ると重なってはいない

 

遠い遠い昔から

たった数千年という時のなかで

まだわたしたちは螺旋階段を歩いている

どちらが上か、下かはわからないまま

 

靴下を履いて

明日というたった一段先の階段に移っていく

 

 

この世が何次元であろうとも

平衡感覚は自己流でしかない

 

新しいものに

不安を抱えるのも

期待を抱くのも

こんなにも簡単で

しかし毎日することは、階段を一段移ること

 

いのちより長く続く、螺旋階段

水槽に泳ぐ

ぷかぷかぷかぷか

 

浮いては揺らぎ

沈まぬからだ

 

あの魚たちとはちがう構造

 

手のひらほどのビニール袋も

分厚いガラスの箱も

生きる空間としては同じ意味

 

広いほうがよかろうとも思うけれど

それだけたくさん入るもの

 

ペットボトルの水面さえ

ゆらぎその向こうを映す

 

水滴がひとつ落ちれば

またゆらぎ

波紋はさらに広がっていく

 

広くも狭くも同じこと

どこまでも変わらぬ摂理

 

ぷかぷかぷかぷか

 

浮き輪はいつまでつけてよい

 

 

ふゆ

冷たい空気の中で

陽の光で熱くなった髪の毛を

少しどかして

あたたかいラテを飲む

 

深緑の向こうの真っ青が

とても冬らしいと思う

 

冷たくなった指先で

スマホを打つ

 

次の行先に

向かうか考える

 

小学4年生の世界平和 / ジョン・ハンター

これは教育と学びの本である。

 

ある小説で登場人物の男子高校生が、「あの本は面白い......」と呟くものだから、これはいつか必ず読もうと思っていたのだ。

本屋や古本屋で面白そうな本を手に取るのも良いけれど、本から本を、人から本を紹介されることになにか縁を感じる。

 

あるとき、あるアメリカ教師(=著者)がワールド・ピース・ゲームを思いついた。

それは、様々な課題や複雑に絡み合った問題を孕む仮想の世界で、どの国もスタートより資産を増やすことがゲームに勝利する条件として子どもたちの考え方や感じ方を成長させるゲームである。

 

最初、ある小説でこういった概要を読んだとき、実際に本書を読んだ時ほど、この仮想世界に蔓延った地球上の問題点が多く、かつ複雑なものだとは思いもしなかった。

なぜなら、タイトル通り、小学4年生が動かすゲームだからだ。

そして序盤ですでに、今まですべての子どもたちはゲームに勝利してきた、そう書いてあったからだ。

 

しかし、実際はゲームは複雑だった。

現実世界かと思うような現実的な問題(地球環境問題、宗教問題、資源問題、貧困問題...)が複雑に絡み合う状況を示した十数ページにわたるレポートを最初に手渡され、子どもたちは困惑する。

それぞれ国の首相や国防大臣、財務大臣外務大臣、国連、武器商人や破壊工作員、そして気象の女神などに任命され、様々な役割を担うことになる。

 

権力欲にまみれて暴君となる首相もいれば、懸命な判断を促す国連職員、正しさを信条とする気象の女神、頭の切れる大臣や、結果的に地球環境問題解決に貢献した武器商人もいる。

 

色々な事例を取り上げているが、すべてに共通して言えるのは、失敗も、経験として得られるものがあるから、結果的には成功である、最終的には、その子がどう振舞っても、子どもの成長に寄与するものがある。

 

それから、戦争は、多くの場合、失敗であるということ。

個々人であるとともにに、世界というコミュニティーの一員であることを自覚すること。

 

最後にゲームに勝利する、その道筋の入り口に立ったとき(これはある一人の子どもが導く場合もあれば、全員で一斉に思いつく場合もある)、ひらめき(クリック)から流れ(フロー)が発生し、その流れは怒涛のように押し寄せ、全員で勝利を手にするという。

 

本書にはその前段階も含め、成長に関する様々な出来事を紹介している。

 

世界中の教育現場に、このワールド・ピース・ゲームが広まっていけば面白いのにと思う。

と同時に、かなりゲーム設定が複雑なので、取り仕切る教育者側にも相当の素質(もしくは勤勉さ)が求められるだろう。

 

読み始めたときは、自分が子どもの頃に参加したかったという思いと、引っ込み思案だった自分は、なんの役割も果たせなかったのではという思いが両立する。

読み終わったいまは、なんの役割も果たせないなんてことはなかったかな、くらいには思えるようになっている。

そもそもやっていないことを”こうだったのでは”と言っても仕方がない(わからない)ことだというのもあるし、本書に登場した子どもたちと同様、それまでの自分からなにか変わって一歩を踏み出せた可能性だってあったからだ。

 

子どもの成長は、きっと無限大だ。

 

それだけにとどまらず、私がもう一つ言いたいのは、信じたいことは、

大人だって、きっと無限に成長できる。

 

エンプティー・スペースに入ることさえできれば。

不満未満

何故だか満たされぬなにかを抱えて

どうしたらそれらが解消されるかを探しながら

でも日々のプロセスを辿るために時間を決めて

解決の糸口は見えぬまま今日も眠りにつこうとしている

 

読めば良いのか、書けば良いのか、

頭ではわかっていてもなにも手につけられぬ時間のもどかしさばかりが付き纏う

 

安易な方へ流れてしまう癖がついているのは重々承知で

そこから抜け出すには重い腰を上げる気力と取り組む時間が必要で

でも案外それらはやる気さえあればなんとでもなる類のものだということも

よくわかっている

 

時計が明日になれば

明日のために寝る準備をする

今日という1日がどれだけ意味や充実したものかはわからないが

意味のない1日も意味があるだろうとは思うものの

どこかに成果を求める気持ちも見つけてしまう

 

さあ今日はもう寝よう

また時期がくれば読み始めるときも、書き始めるときもくる

いまはただ、静かに準備をしていると思って、

そっと瞼を閉じよう

終わり方

物語の終わりは、何度読んでも、

それが好き終わり方であるほどに、

ため息なようなひと息が、

お腹の底から出ていくようで。

 

終わってしまう切なさと、

駆け抜けるような長い旅の終わりを、

今一度噛み締めているからでしょう。

 

昨日、課金しまくって読み終わった漫画を、

本日、改めて読んだところです(笑)

 

手のひらにおさまるいくつもの物語は、

長ければ長いほど、

好ければ好いほど、

感慨深さを持って終わりを告げます。

 

常々思うのは、

課金せずにじっくりチャージが溜まってから読むのと、

課金して一気に読んでしまうのと、

どちらがより味わえるのかということ。

普通に考えると前者かもしれませんが、

その時の自身を満たすために後者は有効なご褒美なのです。

そして、あまりにチャージまでの期間が長いと、

物語がわからなくなってしまったり、

こころが離れてしまう時もあるので、

一概にどちらがよいとは言い難い。

 

いずれにせよ、

嗚呼終わってしまった

と思う作品は、

好いということ。

これだけは、確かなのだと思います。